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2007/03/12

古希の雑考

『古希の雑考-唯幻論で読み解く政治・社会・性-』(岸田秀:著 文春文庫)
読了。
たまたま入った書店に平済みになっていたので求めた本です。

岸田秀の『唯幻論』は、とても自分の考えにはまって、今、いろいろなことを考えるのに、なくてはならない思考の杖です。またそれは、寺山修司の「作り変えることのできない過去なんてない」というような考え方にもものすごく親和性があって。だからはまった原因でもあるのですが。寺山修司が提示した感性に、岸田秀が理論的なものを与えたというか。ほんと、寺山修司がご存命だったら、タッグを組んで欲しかったなと思います。

寺山修司も岸田秀もその根底に母親との桎梏がありますが。そしてまた岸田秀に大きく影響を受けた本田透さんも。
私の母親はどうだろう?私の母親は大甘の母親だったと思いますが…。

ま、岸田秀の思想、『唯幻論』は、70年代に大ヒットした、『ものぐさ精神分析』に提示されたものから、大きな変更はないように見受けられます。
その、『唯幻論』という、“現実”を腑分けする手法を以って、森羅万象をぶった切っていくというのが、その後の岸田秀の著作であります。その一冊が本書『古希の雑考』という位置づけであるかと。

『唯幻論』の根底にあるのは、「人間は本能の壊れた動物である」というテーゼです。
本能、それに従っていれば、何の桎梏もなく、生きていけるというシステムです。よく、我欲で生きている人間を評して、「あいつは本能で生きているやつだ」って言ったりしますが。しかし、動物においては、食料とか生存に必要なものを得るシステム、オスメスの奪い合いといった生殖のシステム、それは、“本能”にプログラミングされたシステムで、そのプログラミングがなされた当初から、大きな環境の変化がなければ、それに従いさえすれば、その生物の生存にはなんら問題がありません。生きていく上に大きな葛藤もないかと。

しかし、人間においては、その“本能”が壊れている、と。本能に従いさえすれば、種族は存続できるというシステムは壊れていると。つまり、人は、てんでバラバラの『私的幻想』を抱えこんでいて、その、てんでバラバラの『私的幻想』から、共有できそうな部分を『共同幻想』とし、社会を形成し、存続していってる、と。
その、『本能』の代用として、社会を構成していて、その、社会の一員として、人を生存させているのが、『自我』であると。

その『自我』も外的と内的に分かれていて。社会に適応するための、共同幻想をベースにした『外的自我』、そして、それに取りこぼされ、押し込められた私的幻想が『内的自我』は相互に葛藤し。

『共同幻想』によって収められた個々の成員の持つ『幻想』、そして、それに取りこぼされてくすぶっている『私的幻想』。その、『共同幻想』と『私的幻想』との対立がある限り、人は社会に全面的になじめずに、人と社会は対立し。だから、人の社会においては、静的安定はありえず、その、共同幻想と私的幻想の按配の、流れによる『動的安定』しかありえないと私は思います。そして、『私的幻想』=『共同幻想』は、本能が壊れている以上、ありえません。

いや、これは半可通の理解であると、私的理解であります。興味を持った方は、きちんと岸田秀の本を読んでください。『ものぐさ精神分析』あたりから読み始めるのががお勧めです。

『唯幻論』の上に、本書はあって。その思考過程を理解すれば、読者の身の回りを『唯幻論』で理解するうえで役に立つと思います。しかし、『唯幻論』はきついですが。そのきつさを受け入れつつ、『唯幻論』を杖としなければならないほどの痛みを、生きていく上に持ってない限りは、必要ないのかもしれない。例えて言えば、体に不具があって、歩くにはとてもきつい装具が必要だけど、それなくしては歩けないから、その装具が必要であるといった感じかなぁ。

なんか取り留めなくなってきましたが。

本書はいろいろたくさん考えるヒントがある本です。アメリカがなぜあれだけ正義のもとに人を殺しまくってるのかとか、日本はなぜ、あるときは属国、あるときは戦争相手国として、アメリカに愛憎共に深い感情を抱くのかとか、そういうのを鮮やかに解き明かしてくれます。

いろいろ引用しようと思いましたが。
今、いろいろ考えている、恋愛関係の部分だけ、ちょっと引用したりして。

近頃の若い人たちの恋愛を見ていて、もちろんすべてではなく、一部であるが、どうも「とりあえず」という感じの男女関係が多いような気がする。
(中略)
一応はどうにかこうにか今の恋人との関係を楽しんでいる。当人たちにはそれなりの理由があるのであろうが、はたから見れば大した理由もなく、それまでしょっちゅう会い、仲良く付き合っていた二人が突然別れたりする。(313p)

私は現実に、そういうシーンを見て、解釈に苦しんだのですが。岸田秀先生は、2004年に定年退官されるまで、和光大学の教授で、若い生徒さんの恋愛のありようを見てこられていらして、私よりも何倍も今時の若い人の気質の変化を見てこられて、きっちりと指摘されているのだなと思います。しかしほんと、恋愛資本主義、恋愛消費社会ですな。もう恋愛は“消費”する物になってしまってる。

昔なら、熱烈な恋愛をしていて捨てられたり、あるいは、熱烈な恋を訴えたのにふられたりした男(女)が、簡単にあきらめず、なおも相手を求めつづければ、よほど深く愛しているのであろう、なんと純情可憐な人であろうと同情されて、むしろ、ふった男(女)のほうに非難の眼が向けられたりしたが、今では、簡単にあきらめない男(女)はストーカーと呼ばれて身勝手なしつこい奴だと嫌われる。(314p)
(中略)
確かに、ふられて容易にあきらめない人は、「取りあえず」恋愛している者にはうるさくて邪魔なだけであろう。

き、岸田先生ぃ~~~~!!!(号泣)

確かに、ストーカーと呼ばれる人は視野狭窄で自己中心的な人ではあろうが…。(314p)

いや、そうですが…orz..

繰り返しますが。
私は、『唯幻論』を、決して人には勧めません。
なぜなら、唯幻論は、とてもきついです。もし、あなたが、セカイに心地よさを、満足を、感じているなら、それを大事にしたいなら、ここで読んだ事は無かった事にして、生きていけばいいと思います。

ただ、そうでなければ…。

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