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2007/03/08

『不都合な真実』の不都合な真実

http://www.sankei.co.jp/kokusai/usa/070302/usa070302008.htm
自宅で大量の電気…ゴア氏にも「不都合な真実」?

アメリカ合衆国は京都議定書にも参加せず、環境に関しては後進国、という認識があるようですが。(もちろん京都議定書を遵守できるか、あるいはそうする事で“環境”が守られるかどうかはまた別の議論ですが)
ただ、最近、アメリカでも環境問題が取り上げられる事が多くなったらしいです。『不都合な真実』という環境問題を扱ったドキュメンタリー映画が大ヒットしたり。
『不都合な真実』では、クリントン政権下では副大統領を勤め、2000年のアメリカ合衆国大統領選挙では僅差でブッシュに敗れたアル・ゴアがホストを勤めているのですが。その、アル・ゴア自身が、資源をばんばん浪費する生活をしていたとか。ま、そんなものでしょう。

というか、今、アメリカで環境問題が取りざたされているのって、“敗戦準備”じゃないかと思ってます。イラク戦争のね。

米軍はイラクで敗れるでしょう。よしんばイラクの一時的な平定に成功したとしても、大勢のイラク人を殺したアメリカ合衆国は『憎しみの連鎖』に加わった訳で。親や子、親族、友人を米国に殺された人々の憎しみは、いつか報復のテロとなって合衆国を襲い、そしてアメリカはそれに報復し…、と続いていくでしょう。憎しみの連鎖には次々と環が繋がれ、長く長く延びて行き。

ま、イラク戦争はベトナム戦争と同じような経緯を辿るんじゃないかと思ってます。イラク平定に失敗したまま、米国は戦争をイラク傀儡政権に押し付けて撤収。そしてイラクは混沌状況のまま放置される、と。そのうち第2のフセインが現れ、イラクを平定するかもしれませんが。まぁ、シーア派とスンニ派、そしてクルド族の対立とかありますし、イラクを平定できるのはある程度の独裁者でなければできないかと。

ただ、まぁ、イラクは中東の中心地ですし、ベトナムと違って、失ってもシャレで済む所じゃありませんし、だから、そうならないかもしれませんが。

もし、アメリカがイラクを失えば、中東の反米機運は一気に盛り上がるかと。そうなれば、中東からの石油は来なくなることはないでしょうけど、輸入量の減少、価格の高騰はありえるかと。ま、つまり、アメリカは耐乏生活を強いられるでしょう。
で、その耐乏生活を『エコライフ』と言い換えて、アメリカ国民に普及させようとしているのではないかと、そう理解しています。米国で環境問題がブームになったのは。

まぁしかし、環境問題ブームですねい。レジ袋がどーとかが最近の日本じゃトレンドみたいですが。レジ袋をなくしたくらいで“救える”環境なんでしょうか。そういう小手先程度の事で?ま、そう言うと「やらないよりまし」「できる事からコツコツと」なんて返事が返ってくるのでしょうが。ま、そうなんだけど。
だいたい『不都合な真実』も、“私たち”が、“できる事”から、“コツコツ”やっていけば、“環境“問題は“解決”できるという主旨だそうですから。

問題はこの『消費社会』そのものにあると思ってます。『消費社会』から他の社会へのシフトこそ、環境問題を解決すると思っています。もちろん『消費社会』を“ずらす”ことでもある程度の効果はあるでしょうが。
例えば、資源消費型から情報(あるいは幻想)消費型の社会へとか。例えて言えば、ガソリンをバンバン使って自動車でドライブするより、あるいは地球の裏側からジェット燃料バンバン使って運ばれた材料で作られた珍味に舌鼓を打つより、部屋に引きこもって、ポテチをコーラで流し込みながら一日美少女ゲームを遊ぶ方が、よっぽど環境に優しいライフスタイルであります、が。

何度も何度もしつこいくらい書いていますが。

“自我”はその安定のため、自我を支える何らかの“装置”が必要であります。宗教や地縁血縁、あるいは主義や理念といった、かつての自我の安定装置は、現代において崩壊しています。
それは自由になったという事でありますが。その一方では、自我の安定装置が崩壊し、人は不安定な自我に悩まされる事になったと。それらに取って代われる自我の安定装置が必要になったと。
そして、その自我の安定装置のひとつとして、現代には“消費活動”があると思うのです。

例えば、家電とかで『三種の神器』という言葉がありますが。最初はテレビと冷蔵庫と洗濯機の事だったのかな。そういう物言いがしっくりくるということは、消費社会において、消費財は神にとって替わる自我の安定装置だという意味でありましょう。
また、ブランド志向というのもそうですね。ブランド品を求める事によって“ブランド”という“物語”を手に入れる行為。

しかし、この消費活動による自我の安定は、致命的な欠点がひとつあります。それは、消費活動は、「死を乗り越える知恵」にはなりえないという事です。

かつての自我の安定装置、宗教や地縁血縁、あるいは主義や理念といったものは、「死を乗り越える知恵」を含んだ自我の安定装置であるました。死後の世界の約束、自分が死んでも自分を、自我の一部を継いでくれるものがいるという事、あるいは、例え殉じても惜しくはない“大義”。
人は“死”を恐れます。もちろん。ただ、それは、“死”そのものに対する恐れというよりは、“死”に伴う”自我”の消失に対する恐れであります。“自我”を脅かされる事に対する恐れです。

例えばイスラムの自爆テロリストたちは、自らの今の自我が不安定な状況より、イスラムの理念に殉じることのほうが、自らの命を以ってイスラムの大義と一体化する方が、より自我の安定になるから、自爆していくのでしょうし。
ちょっと前に、マリー・ローランサンの「 死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」という言葉は、他者という“自我の安定装置”においては、他者の中に自分がいないことは、死よりもつらい、という意味でしょう。

だからこそ現代人は、消費生活に自我の安定を求めつつも、究極には自我の安定は得られず、更に餓えたように消費生活を、ひと時の、その場限りの、心の安定のために、続けなくてはいけないのであろうと思います。

例えば、宮崎勤のビデオコレクション。彼は、愛されないタイプの人間で。そして、彼を唯一可愛がってくれていた祖父も死んという自我の危機的状況を、ビデオコレクションに没頭する事で乗り越えようとした、いや、小手先でごまかしていたのか。彼は結局鬼畜ルートに行ってしまったのだから。

その、不完全な自我の安定装置である“消費”への依存。それを乗り越え、新たな自我の安定装置を手に入れるか(もちろん、かつての自我の安定装置、宗教や地縁血縁などに回帰する可能性もあるというか、そっちの方が可能性が高いですが)し、消費社会のくびきから人が逃れる事ができれば、過剰な消費活動も収まり環境にもよろしくなるかとも思います。

ほんと、現代人って、『経済の奴隷』、あるいは『消費する家畜』であると思うのです。かつての共産主義的な、資本家VS労働者の対立という図式はもう古くて、資本家も労働者も『経済の奴隷』であるという点においては等しいのではと思ってます。

もちろん、消費活動に替わる新たな自我の安定装置が生まれれば、それによって自我は安定すると同時に、それによって縛られるわけであります。それが宗教であれば、人は今度は『宗教の奴隷』になる可能性もあるわけです。それがいいことか悪い事か解りません。
ただ、宗教は「死を乗り越える知恵」は持ってます。

そのうち、消費活動においても、「死を乗り越える知恵」はつくかもしれませんが。例えば、恋愛と消費活動が結びついた“恋愛資本主義”。愛は「死を乗り越える知恵」を持ってはいます。ただ、現在は、消費主義の方が勝って、“愛”による永続的な自我の安定より、“愛”を“消費”する、という形になる危険性が大きく、また、恋愛弱者は恋愛が手に入らず、そもそも恋愛資本主義による自我の安定そのものが不可能なんだけど。

ま、どうなるか、どうすべきか、解らないけど。

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