『結婚のすべて』
昨日は京橋のフィルムセンターへ。東京フィルメックス映画祭の岡本喜八特集の一本、『結婚のすべて』を拝見しに。
日本映画データベースによる『結婚のすべて』のスタッフ&キャスト表はこちら。
同じく日本映画データベースによる岡本喜八作品リストを見ると、本作が岡本喜八監督デビュー作のようです。
上映会場のフィルムセンター、お歳を召したご婦人が入ってくるお客さんにお辞儀をしていらっしゃいます。状況から考えて岡本喜八監督婦人でいらっしゃると思うのですが…。もったいなさすぎますよぉ。
ロビーに『結婚のすべて』のポスターも展示されています。惹句が「ロカビリー族の愛と結婚と性(セックス)」だったかな。“性”と大書きされているのが時代だなぁと思いました。
今は別に“性”と大書きしなくても“性”は溢れかえっていますものね。
展示物にも『結婚のすべて』の台本がありました。
さて、映画本編は。
(以下ネタバレゾーンにつき)
オープニングはスクリーンから観客に話しかけてくる小林桂樹のナレーション。それがプロローグ。現代、性が開放された時代だとか。キスシーンのある映画。バスの中での風景、例えば胸元の大きく開いた服装の女性、また例えば車内で熱心に性の手ほどき本を読む若い女性。さらにバスの広告も性に関連するものばかり。
バスを追い越していく神風タクシーから物語の始まり。タクシーに乗ってるのは土井康子(雪村いづみ)、劇団の研究生。彼女は劇団の稽古を抜け出して、知人か親戚の結婚式に急いでいるところ。
彼女の姉、長女の垣内啓子(新珠三千代)は数年前、大学で哲学の講師をしている垣内三郎(上原謙)と見合い結婚をしていて。女の子がひとりいます。
妹の康子はそういう姉のしたような見合い結婚は嫌で、恋愛結婚に憧れていて。
で、康子は三郎の教え子で、酒場でバイトしている青年・中川浩(山田真二)と恋に落ちます。
かたや啓子はその結婚式の帰り、喫茶店で知り合った康子の知人の婦人雑誌編集長の古賀俊二(三橋達也)に一目惚れされます。
康子が興味を持った浩、最初は女に興味がないという風を装ってるんだけど(コマしのテクニックですねぃ)、やがて彼女を夢中にさせていきます。キスまで行って。
かたや啓子は、三郎の、結婚の約束をした教え子同士の熱愛っぷりを目にしたり、古賀に逢うことで自分の三郎との生活につまらないものを感じるようになり、古賀に少しづつ惹かれていくようになる、と。
康子は浩のアパートまで行くのだけど。しかし、彼には別の同棲中の恋人がいて。
で、彼の価値観は、たくさん恋人がいたっていいじゃないか。二股三股、いや多股容認派で。恋愛しまくって恋愛に飽きてから結婚すりゃいいじゃないか。恋愛に飽きてりゃ結婚してから浮気をする事もなかろうという考えで。その考えについていけないと思った康子は浩の許を去ります。
啓子は迷いつつも家計の足しにしたいと古賀の雑誌のモデルを引き受けます。打ち合わせを兼ねて古賀は啓子を結婚相談所や花嫁学校に連れて行き、そして行きつけの酒場に彼女を誘います。そこで古賀は契約結婚している女房との契約がもうすぐ切れるから、亭主と別れて自分の許に来ないかと持ちかけ、口づけを迫ります。ほうほうの体で逃げ出す啓子。
帰宅した啓子。三郎は娘に本を読んで寝かしつけているところで。亭主の姿、そして娘の寝顔を見た啓子は、自分は亭主に愛されていて、そして自分も亭主を愛していることに気がつく、と。
浩の許を去った康子は啓子の家に転がり込んでいるんだけど、愛し合うふたりの姿を見て、見合い結婚も悪くないと思い。彼女の父親が勧める見合い相手を、待ってるのも嫌だからと会社に押しかけて誘い出します。
啓子に振られた古賀は、契約結婚している女房に電話をかけ、契約を更新しようと持ちかける。花嫁学校の講師をしている女房は「あなたとあたしって気が合うのよ。」といってそれを快諾する。
とまぁ、お話しは落ち着くところに落ち着いて大団円、と。
そういうお話でした。
そういうお話の合間合間に当時の“現代”恋愛事情や結婚事情が点描されていくというスタイルでした。学生結婚の熱々カップル、古賀の年限を決めた契約結婚、三郎の教え子男女の、三郎夫婦を証人に約束事を決めた契約結婚、同棲、ポリガミー(1対多、あるいは多対多)の恋愛関係(これに対して1対1という恋愛・結婚関係がモノガミー、英語字幕つきって便利だわ)、結婚相談所、花嫁学校、etc...
そういうのを描写しつつ軽快なタッチでお話は進んでいきます。喜八節、でしょうか。
まぁお話しはハッピーエンド。収まるところに収まります。それでいいと思います。娯楽作品だし。
恋愛観・結婚観の違い。自己の、あるいは他者の。そういうのが葛藤して悲劇的なクライマックスを迎える、あるいはドロドロのまま堕ちるところまで堕ちるというようなお話ではありません。
まぁ、それでいいかと。“現実”はそうなる事も多いけど。
プロローグ部分。映画が映画であると自覚している“メタ”なつくり、それを踏まえたうえでのお遊び。例えばウディ・アレンの作品とか、あまり詳しくないけどヌーベルバーグな?フランス映画にも通じますね。
さて、自分を振り返れば。あたしは“恋愛”とも“結婚”とも縁のない人間であります。
ここで書くのはそういう人間が観たこういう作品の感想になりますな。
まぁ、かつて“結婚”とは“家”のため、“労働単位”のため、という部分が大きかったかと。
まず“家”のためということ。現代は“家”という血縁幻想もだいぶ薄れてきたかと。“家”とか“地域”とか“宗教”とかから現代人は自由になって。“自分本位”で生きていくことがいい事になって。もちろんそれは自分の“拠りどころ”を失うことでもあったんだけど。これはまた別の話。
そして“労働単位”という事。かつて家庭内労働というのは大変で、ご飯ひとつ炊くにもお米を研いで、かまどに火をおこし、ご飯が炊きあがるまで付きっ切りで面倒を看なきゃいけなくて。洗濯だってそうですよね。
そういう家の中での「家事」、そして糧を得るための家の外での「労働」、それを両方ともこなすためには「夫婦」というユニットを組んで仕事を分担させないと大変だったと。だから、ほぼすべての人を結婚させることができる「見合い」というシステムが存在したと。
今の時代、家事労働の手間は激減していて。ご飯炊くなら無洗米とかあるから、電気釜にお米と水を入れてスイッチひとつで炊き上がります。それすら面倒くさければ弁当屋もあるしコンビニもあるし。このように家事労働は劇的に軽減されていて。だから家の外と内の労働を分担するために「夫婦」というユニットを組む必要性も薄れてきて。
また、付け加えれば、“家”の機能が外部で代替できるようになったというのは寺山修司の指摘だけど。その通りだと思います。恋愛だってセックスだって結婚を前提にしなくてもいい時代になって。
寺山修司は『家出のすすめ』を書いたけど、今時は出るべき“家”すらも存在しない時代になったかと。
まぁ、そんな感じだから。今時の人にとっては結婚とは何かという意味が薄れてきたかと。結婚しなきゃいけないという必然性はなくなってきたかと。
キリスト教文化圏ならまだまだ宗教的な意味は残ってるだろうけど、そうじゃない日本だとさらに結婚の無意味化が進んで。
あとは育児の単位ぐらいしか残ってないんじゃないかしら。“夫婦”というユニットは。
だからこそ、結婚の理由は“恋愛”ぐらいしかないんだけど。
しかし、劇中語られるようにぱぁーっと燃え上がる恋愛なんていつかは消えるもの。
そういった部分も含めて、恋愛結婚っていうのも不安定なものなのでしょう。
ずっと熱々じゃないと結婚は維持できない。しかしそれは難しい。
そう、作中、康子は、恋愛とは「ぱぁーっと燃え上がるような」だけじゃなくて、「じわじわ燃える」ものもある、その、じわじわ燃える恋愛が結婚を維持するものだと気がつきます。だから、彼女は見合いを受け入れるのだけど。
私もそう思います。結婚とは“恋愛”じゃなく、なんて呼べばいいのかな“慈愛”の世界だと。ところが恋愛を慈愛に持っていくのに失敗することがままあって、それが現代の離婚率の高さなのかなぁと思います。
『結婚のすべて』で康子がその事に気がついた、それが語られるだけでも、現代に通じるお話だと思います。
いや、今の恋愛結婚時代の離婚率の高さ、その根底になる“恋愛”結婚の問題点をも、50年も前の1958年に既に気がついていて、映画にしてあると言っても過言ではないかと。予言的であります。
しかし、『ピーナツ』(スヌーピーの出てくるマンガ)でルーシーがよく言ってる「未婚の結婚相談員」か、あたしは。ま、あたしも結婚したい、所帯を持ちたいとは思ってます。
しかし恋愛弱者だしね。
ところで。作中、バンドが酒場で演奏してお客さんが踊るシーンがあります。そのバンド、ギターが3丁もあります。フォークギター2本とエレキギター1本。そういうバンド編成もあるのだなぁと思いました。で、だいたい当時の娯楽映画って、こういったバンドシーンや歌のシーンを入れるのですね。面白いなと思います。
『結婚のすべて』、佳作でありました。面白く拝見しました。
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