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2006/10/30

煌翔の上映会

28日、最終土曜日は定例の かわなかのぶひろ先生&萩原朔美さんの上映会でした。
場所はいつもの通り南阿佐ヶ谷のギャラリー・煌翔。

プログラムは
『映像書簡5』(かわなかのぶひろ&萩原朔美、94年)
そして若手ゲスト作品として
『鍵』(園田枝里子、05年)
『Kへの画集』(波田野州平、06年)
それからかわなか先生の月一新作が
『酔中日記2』(かわなかのぶひろ、06年)
でした。
今回、いつもお見えの萩原朔美さんは萩原朔太郎賞の選考のお仕事でお休みでした。

『映像書簡5』。かわなかのぶひろ&萩原朔美の映像による往復書簡シリーズ。この映像書簡5は初見の時から印象に残っている作品です。
空手着姿の萩原朔美さん。ナレーションで、前歯は2本とも差し歯になった、足の指はひびが入って膨らんだまま固まってしまった、というような言葉が流れます。
そこまで空手にうちこまれる姿。

身体を強健にしておかないと、それから生み出される言葉も脆弱になってしまうのか。言葉の“身体性”が失われてしまうのか、と、初見の時に思いました。体、鍛えなきゃいけないかなぁ…とか思ってましたが、いまだに鍛えてません。

丸山健二の言葉だったか「文章は肉体なり」というのがあります。文章は書く人の肉体を表すと。丸山健二自身、長野に移り住み、体を鍛えて小説を書いた方。
私の文章を読み返すと、ほんとぜい肉が多いと思います。やっぱり自分の体を反映しているのかなぁと思います。

『映像書簡5』のかわなか先生のパートには、寺山修司の母親、寺山はつさんの納骨式の様子がチラッと出てきます。九條今日子さん、偏陸さん、蘭妖子さん、昭和精吾さん、サルバドール・タリさん、それからテラヤマ新聞の稲葉さんのお姿もあったように見えたのですが。ずいぶんと貴重な映像かと。

ちなみに映像書簡シリーズとしては、4から12年のブランクを超えて作られたのが5です。
あ、そうそう、思い出しました。深夜+1でかわなか先生から、映像書簡シリーズを再開するなんてお話を当時伺いました。

ゲスト作品。

『鍵』。アルミサッシの出窓。開いていて。片方には庭の風景、そしてサッシ窓の片側に等身大の写真を貼り付けてアニメーションしてるという趣向の作品。この写真をパタパタ置き換えてアニメーションするという手法の作品はいくつかは意見しています。鈴木志郎康さんの映像作品では決め技のひとつになってます。
しかし、等身大の、サッシで窓一枚分の大きさの写真を使うというのは大技です。

片方の、実景の庭のほうは明るくなり、暗くなり、また明るくなり。夜を日についで何日もかけて、日によっては徹夜してこしらえたのがわかります。3週間ほどかかったとか。たくさんの写真を用意して、一枚一枚写真を張り替えて。その手間のかけ方にぼっとします。

萩原朔美さんのご紹介の方のようですが。萩原朔美さんにも、いっこのリンゴが朽ち果てていく様子を1日1枚撮って1年分365枚で1本に仕立て上げた作品があります。その手間とこつこつとした継続性を考えるとほんとぼっとなるんだけど。
でも、そういったコツコツさが、たゆまぬ真摯な態度が、ほんとうの“作品”を生み出すのでしょうか。

『Kへの画集』。スタイリッシュな、美しい映像。どこか「劇映画の切れ端」と感じさせる作品でした。

今では“やおい”というのは女性向けの美少年同士のホモセクシュアルコミックをさすようになってますが。元来は「やまなし。いみなし。おちなし。」のあたま3文字を取ったものです。
そういう意味での”やおい”作品というのを初めて読んだのは、大昔の藤原カムイの作品でした。少女?が、湖畔で手首を切る、というような作品だったと思います。

それまでは漫画というのはストーリーのあるもの、という認識でした。しかし、その作品では、「なぜ少女が手首を切ったのか」という理由や、「手首を切った彼女はどうなったのか」という結果については示されていません。それが何かとても違和感を感じさせたのが記憶に残ってます。ひどく不安定な感じになったのを記憶しています。物語の切れ端みたいな感じ?

映画を撮るとき、作り手はまず「こういう物語(ストーリー)をつくりたい」と考えるのでしょうか?それとも「こういう画が撮りたい」と考えるのでしょうか?たぶん、両方あると思うのですが、そういう色々な動機の集合体として一本の作品があるのでしょうが。

撮りたい画があるのなら、劇映画なら、取りたい画をはめ込んでストーリーを組み立てるのでしょう。しかし、その、藤原カムイさんの作品は、そういった作業をオミットして、“撮りたい画”だけを描いた訳です。

“やおい”が女性向けの美少年同士の恋愛(いや、もろにセックスと書いた方がいいかなぁ)ものを指す言葉になったのも、その、恋愛に至るもろもろのストーリーをオミットして、セックスシーンのみ、描きたい&読みたいシーンのみ、ずばりと持ってきたせいかと思うのですが。

いや、“実験映画”であるならば、ストーリーのない、“撮りたいシーン”のみで作品を組み立てることも可能な訳ですが。そして私はそういった作品をたくさん見てきたはずなんですが。しかし、本作は、その、藤原カムイさんの作品に初めて触れた時のような、どっか不安定な印象を私は私は受けました。ストーリーの切れ端のような台詞シーンがいくつかあったせいかと思いますが。

そして、かわなか先生の新作『酔中日誌2』。10分と、煌翔での新作シリーズとしてはいちばん短い作品。

かわなか先生、最近、エロシチズムが足りないと言われたそうです。で、その、エロシチズム方向への作品のようです。

かわなか先生ぐらいのお歳なら、エロシチズムとなれば、モロじゃなくて、エロチシズムを感じさせるシーンを出してくると思いましたが。いや、女性の裸がモロにどーんで、意表を衝かれました。

ただ、「女性の裸=エロシチズム」では必ずしもないんですよね。たぶん、エロシチズムの本質は、もっとモヤモヤっとした脳内に想起される反応であって。そのもやもやっとした感じを映像として表現されようとしていると感じます。

ティーチインもあって、楽しかったです。おいしいお料理もお酒もたくさん。そして歓談、楽しかったです。ちょっと呑み過ぎてしまいましたが…。
ただやっぱり私、ザコのトト交じりだわ。

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