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2006/09/08

筋肉少女帯復活?

mixiの方の足跡を辿っていたら、筋肉少女帯再結成ライブのニュースを見つけました。
あわてて公式サイトを覗いてみたら、確かに年末「仲直り」ライブがあるようです。

筋肉少女帯は、生まれて始めて“コンサート”じゃない“ライブ”に行ったバンドです。

最初はリーダーの大槻ケンヂさんの本から入りました。
ある「奇妙な味の」アンソロジー集に大槻ケンヂの短編が収められていたのが出会いでした。
女友達が小学校の屋上から飛び降り自殺したんだけど、飛び降りた直後は生きていて、小学生たちが見守る中、喫茶店に入ってコーヒーを注文したところで息絶えた、というお話でした。エッセイとも短編小説とも取れる作品でした。
「良くこんなお話が書けるな」と驚きました。
それから大槻ケンヂさんの本を読むようになりました。

感じとしては中島らもさんに似てたかなぁ。おふたりともエッセイで「ウバタマ(麻薬作用があるといわれるサボテン・ペヨーテの一種」を食べた話しとかお書きになっていますし。

日曜日の遅い朝だったかな。大槻ケンヂさんがホストをつとめるトーク番組があって。時々見てました。で、テーマ曲が筋肉少女帯で。いつもは聞き流していたんですが、ある日、ちょっと気をつけて聞いてみました。その歌詞にビックリ。後で知りましたが、『香奈、頭をよくしてあげよう』という曲でした。

で、あわてて筋肉少女帯の、その曲の入ったCD「レティクル座妄想」を買って、聞いてみて。
「この世で愛されなかった人だけがレティクル座行きの汽車に乗れるの。レティクル座ではジム・モリソンが「水晶の船」を歌って歓迎してくれるの。」
「レティクル座妄想」に出てくるある歌の歌詞の一節ですが。ジム・モリソンはThe DOORSのリーダー。「地獄の黙示録」に「The END」が使われて有名だけど。The DOORSが好きで、いつも聞いていましたから驚きました。そしてどっぷりはまりました。

それから生演奏も見たくなって。初めて行ったのは今はなき日清パワーステーションの「男祭り」だったかな。男限定のライブです。そういう趣向も面白いと思って。
オールスタンディングの“ライブ”は初めてでした。もうそういう歳じゃないような気もしたけど、やっぱり見てみたい気持ちが強くて、思い切って行ってみました。
しかしやっぱり勝手がわからなくて。ワンドリンクというシステムもわからなくて。入り口でトークンみたいなのをもらってドリンクカウンターに行って飲み物にかえてもらうというシステム、なんか奇妙な感じがしました。

ここ空いてると思って立ったのがPAのでかいスピーカー前でした。ライブが始まったとたん、耳の奥までガリガリやられて耳が痛かったです。でも、空いてるので我慢しました。
それから3日耳が痛かったです。耳鼻科行こうと思ったけど。この歳で耳鼻科に行って、「生まれて初めてライブに行って、PAのスピーカーの前に立って耳がおかしくなりました」などとお医者さんに言うのはとても恥ずかしかったので、我慢しました。

それからライブにも行くようになって。ファンクラブにも入りました。
そういえば、生まれて始めてロリィタ服とかゴスロリ服の女の子を見かけたのも筋少のライブでした。後年そういった服のお客さんが多いバンドやミュージシャンさんのライブに行くようになったり、挙句の果てはそういった人たちのイベント、アラモードナイトとか東京ダークキャッスルにまで行くようになるとは当時は思いもよりませんでした。

アルバムもぼつぼつと買いました。アルバムはナゴ ムレーベルとかインディーズ時代のアルバムはさすがに無理だと思って手を出しませんでしたが、メジャーデビューの「仏陀L」以降のアルバムは「シスタースト ロベリー」を除いて手に入れてると思います。限定盤の「筋少の大水銀」もあります。
ただ、ほんと「シスターストロベリー」を買い損ねたのが痛恨の極み。レコード屋の店 頭で手に取ってまではいたんですが。あとで買おうと思いつつ、気がついたらレコード屋の店頭から消えてました。
中古ビデオ屋さんでビデオも何本か買いました。

インターネットを始めたのも実は筋肉少女帯がきっかけ。筋肉少女帯の公式ホームページができたと知って、見てみたくなって。公式ホームページができたバンドとしてはだいぶ早いんじゃないかしら。
モデムを買い、プロバイダーに入りました。あの頃はモデムって3万円ぐらいしてました。
公式ホームページ、楽しみに見てました。掲示板もあって、何度か書き込んだ事があります。あの頃はテレホーダイでしたから、時計とにらめっこして11時になるのを待って、繋いでました。

バンドの運営がきついみたいなのは大槻ケンヂのエッセイとかで知ってました。「予算メジャー、売り上げマイナー。」な状況だったようです。「ステーシーの美術」ツアーではMCで「筋少を広めてくれ!」と言われたり。
所属レコード会社も色々変わっていたようです。2枚くらいしかアルバムが出てないのにベスト版が出たりして。たぶん、○枚アルバムを作るという契約があって、それがきつくて苦し紛れに出していたのかと。

で、所属レコード会社の契約が切れたみたいで活動休止状態になって。
それから徳間レーベルに移るような事になって。ただし、条件として大槻ケンヂと創立メンバーの内田雄一郎を残してメンバー入れ替えという事だったらしいです。で、それをホームページの掲示板に大槻ケンヂが発表したとたん、大騒ぎになって。その騒ぎでうんざりして大槻ケンヂが筋肉少女帯脱退、そして筋少は内田雄一郎と本城聡章ふたりが残り、活動凍結状態になって。

筋肉少女帯はだいぶ早くにホームページができたバンドでありましたが、そのホームページの掲示板のやり取りが活動凍結のきっかけになってしまいました。
しかし、あの頃の筋肉少女帯ホームページの掲示板を見ていた者として、あまり荒れてはいなかったような気がします。ファンの人たちは自分の想いを熱く、熱すぎるほど熱く書き込んではいたようですが、「バカやロー!」とかの罵詈雑言系の書き込みはあまり見かけなかったように思います。ホームページ管理人の大月さんがとてもしっかりした方でしたから、大月さんがそういう罵詈雑言系の書き込みはこまめに消していらっしゃったのかもしれませんが。

筋肉少女帯が活動凍結して。一時期は大槻ケンヂのファンクラブに移りましたが、結局それからバンド活動を始めた大槻ケンヂはほとんど聴いていません。ロフト+1でやった「オーケンののほほん学校」は何度か行きましたが。あまりにも会場が混んできついし、ロフト+1もちょっと苦手な場所なので、行かなくなりました。それに、やっぱり、掲示板の騒ぎで筋少脱退というあの流れはなんだかなぁと思ったりしてました。

時々大槻ケンヂの本を買うくらいのファンではあります。今も。アルバムも時々聞きます。
で、それからライブに行く事もなくなりましたが、2001年夏、三上寛さんと出会い、三上寛さんのライブに何度か拝見するうちにインディーズバンドの世界も知り、ライブハウスは時々出かける場所になり、いくつか好きなバンド/ミュージシャンさんもできました。

そういえば、あの伝説の「うんこライブ」の事を大槻ケンヂさんが「ぴあ」にお書きになっていたのはニヤリとしました。私、行ってたんです。というか、「うんこライブ」のきっかけを作ったの私です。いや、私はそういう風に話が転がってあせったんですがね。

活動凍結後、筋少メンバーの皆さんがどういう活動をなさっていたのかほとんど知りませんし。もちろんライブとかも行ってません。過去音源を使った筋少のアルバムも何枚か出ていたようですが。

そして今回の筋肉少女帯復活ライブ。行ってみたいとも思いますが。でも、もう自分の中にどれほどの想いが残っているかどうか解りません。あの時に筋少はなくなっちゃったんだ、今さら復活だなんてという気持ちもあります。

再結成メンバーを拝見すると、ドラムスの太田明さんがいらっしゃいません。確か、最後のライブで脱退の挨拶があったかと記憶しています。活動休止状態になってからホームページ上で橘高さんの脱退の発表があったと記憶しています。たぶん、徳間レーベルに移籍するにあたってのメンバー入れ替えを受けての事かと推察しますが。
内田雄一郎さんのイメージがぜんぜん変わったのに驚きます。解散前は長髪をもじゃもじゃで黒縁サングラス姿だったと記憶していますが。

年末の再結成ライブが、よくある一度限りの再結成ライブであるか、それとも筋肉少女帯がきちんと復活してコンスタントに活動を続けてくれるのか解りませんが。できたらずっと活動を続けて欲しいと思います。

筋肉少女帯は確かにマイナーであると思います。でも、必要としてる人たちにはとても必要な存在かと思います。必要としてる人はせいぜいクラスにひとりかふたりくらいでしょうが。でも、その人たちには絶対必要な存在かと。ある意味での“救い”になる場合も多いのではないかと思っています。
だから、活動をずっと続けて欲しいと思います。

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