かわなかのぶひろ&萩原朔美 月例上映会第2回
土曜日は南阿佐ヶ谷のギャラリー・煌翔へ。かわなかのぶひろ&萩原朔美、月例上映会の2回目。
上映作品は
映像書簡2(1980 かわなかのぶひろ&萩原朔美)
paper weight(山本圭太)
徒波に独り(木村和代)
風は木を忘れる(萩原朔美)
酒場#2ホワイト(かわなかのぶひろ)
でした。
映像書簡2。
かわなかのぶひろ先生と萩原朔美さんのコラボレート作品、映像による往復書簡、その第2集。2を見るのは何度目かになるけど、映像書簡シリーズでも好きな作品です。蔦の絡まる家屋の映像から、かわなか先生が小学生時分に通っていた映画館の廃墟、そして、今の映画館の映像と展開していきます。
前回の映像書簡1から通して観ていて気がついたのですが。フレーム内フレームという技法は1からの続きなのですね。
そして若手の作品2本。
paper weight。
あるかなきかのぼんやりとした映像のコンポジション。なかなかにスタイリッシュです。
徒波に独り。
冒頭、テロップが出ます。この作品はあるパフォーマンスの映像を、舞台に背を向けて、液晶モニターを見ながら撮った作品であると。ピンボケだったり、視点が定まっていいない映像。
カメラと撮影者、そして被写体の関係。たいてい撮影者は被写体に正対し、その間にカメラがあります。それがある意味“正しい”関係で。たとえば、報道写真とかで人ごみ越しに写真を撮るのに、カメラマンがカメラを高く掲げて撮ったりしますが。そういうのを見ると何か違和感を感じます。盗撮写真とかでショッピングバッグにカメラを仕込んで、女性のスカートの中を撮る。その背徳感のキモは、その撮影者とカメラと被写体の正しい位置関係を壊して撮っているという部分にもあるんじゃないかしら。
そして最近のデジタルカメラ。私がデジカメを使っていていちばん違和感を感じるのは、ファインダーを覗き込まずにカメラの後ろについているモニターを見ながら撮らなきゃいけないって部分です。いちおうファインダーもついていますが、男の乳首みたいな痕跡器官に成り果てているし。
その、撮影者とカメラと被写体の位置関係を壊すという趣向、その趣向は面白いと思いました。ただ、それが映画の冒頭、テロップだけの紹介であるというのが若干さみしかったです。映画本編じゃそうして撮られた映像とはわかりませんもの。そこらへんどうにかできなかったかと思うしだい。
風は木を忘れる。
確か、今年のイメージフォーラムフェスティバルで拝見した作品です。
影についての映画。
「風は木を揺らした事を憶えていない、しかし、木は風に揺らされた事を忘れはしない」というような一文が挟み込まれていました。萩原朔美さん、大男前なのですが、やはり色恋の道を識るお方なのだろうと思いました。あたしは逆立ちしてもそういう機微を知るのは、そういう境地に達するのは無理です。
酒場#2ホワイト。
梁山泊というかなんというか、その才能が開花する直前の人々が集う“場”という物があるようですね。パリのいくつかのカフェとか、マンガで言えばトキワ荘とか。ホワイトもそういう“場”である伝説の酒場。そのママさんを囲む会の模様を写した作品です。
そうそうたるミュージシャンらがステージで繰り広げるセッション。音楽ファン垂涎の映像でありましょう。
ホワイトのママさん。失礼ですが、お歳を召していらっしゃるのにとてもチャーミングで。そういう方だからたくさんの人に慕われ、才能を持つ人が集まってきたのでしょう。
ほんとうに私もそういう人でありたいと思っているのですが…。なかなか無理であります。
お酒を呑みながら、料理を楽しみながらの楽しい上映会でした。
次回も行こうと思っています。
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