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2006/06/08

同時代も歴史である 一九七九年問題

同時代も歴史である 一九七九年問題(坪内祐三:著 文春新書)
読了。

三上寛さんの2003年3月に出たアルバムに『1979』というのがあります。
イラク戦争、米軍がイラクに侵攻するちょうどその時に出たアルバムです。
「戦争反対叫んでも戦う事は美しい」(大きい羊は面白い)など、強烈な反語なのでしょうが、偶然とはいえ無茶苦茶タイムリーなフレーズとか入っていて。
それで、その時三上さんが「今の時代のありようってのは、1979年に始まったんじゃないか?」あるいは、「1979年と今の状況ってのは似てる」か、そんな事をMCで仰ったのを憶えています。

ただ、私には1979年というのがどういう年かはピンとこなくて。それ以来、1979年というのは私の中で引っかかっていました。で、書店でモロに「一九七九年問題」と謳っている本書を見つけて購入した次第です。

本書は雑誌『諸君』に2003年6月号から2004年11月号まで、最初は隔月、あとには不定期に連載された評論をまとめた物だそうです。ひとつひとつの評論は独立しているけど、通して読むとひとつのテーマを語っている事になる、というスタイルだそうですが。

いや、私がどのくらい本書を理解したかはわからないのですが。

1979年とはポストモダンが始まった年じゃないかとされています。具体的にはイランでイスラム革命が起き、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した年として。

ポストモダン、あたしは良く解らないのですが。
町山智弘さんの映画論『ブレードランナーの未来世紀』という本を読みました。ポストモダンを背景にした80年代の映画に関する評論です。で、これ 知っておかなきゃ解らないというので、ポストモダンに関する簡単な説明がありました。それでちょっとだけ、ポストモダンが解りました。ほんとちょっとだ け。

ポスト・モダンつまり、モダニズムの後の時代、ということで。モダニズムとは、進化主義というのかなぁ。物事すべてある方向に“進化”する、“進 化”すべしという考え方。で、ポストモダンとは、その考え方に対して、そういう“進化”というのはないんじゃないかという考え方、でしょうか。

よく考えたら、その考え方、ずいぶん前に知ってました。寺山修司の『さかさま世界史 怪物伝』だったと思いますが。ダーウィンの項にそういうのが ありました。たしか、「ダーウィンの「進化論」というのはおかしい、せめて「変化論」と呼ぶべきじゃないか」という文章だったと記憶しています。その考え 方、とても新鮮でした。

あたしは、高校時代、演劇部の部室にあった寺山修司の戯曲からテラヤマワールドに入って。それからこの「さかさま」シリーズで完全にやられまし た。既存の価値観、物の見方を軽やかに逆転させて、「もうひとつの世界」「もうひとつの価値観」を見せてくれる寺山修司の魔術。当時、閉塞感を感じていた 私にとって、その閉塞感に風穴を開けてくれるものでした。

もちろん、今のこの国の有様、「劣化」と呼ぶべき現象の背後には、モダニズム、つまり、皆で共有している進化すべき方向というのを見失っている部 分があると思います。ポストモダンな状況があると思います。しかし、その各人がそれぞれの方向性を見つけていくというのもずいぶん難しい作業になると思い ます。あたしだって見つけられないもの。

閑話休題。本書に戻って。
ちょっと感想とか。

第1章「一九八四年の「アンティゴネ」と2003年の「アンティゴネ」」
この章の一説より
『しかし、社会主義であれ、それに対する資本主義であれ、「実定性」の中で現実の人々を動かしてきた。
そういう国家のあり方が、左右を問わず、二十一世紀の今、欺瞞であることが明らかになった。
つまりすべてが振り出しに戻った。
その時に頼りになるのが明確な自我をもった個である。』(本書36ページ)

そうですね。“明確な自我をもった個”たりえたいものでありますが、それもまた難しいかと思います。
いや、あたしが憧れる冒険小説や探偵小説のヒーロー&ヒロインはそういう存在であるかと。
それに憧れるのなら、そういう人たちが活躍する物語が好きなら、そう生きたいものであります。

第2章「戦時の「傷」は暴かれるのを待っている」
以前、私は、「男は黙ってサッポロビール」な奴でした。しかし、ある時ある人から「黙っていて解ってもらおうなんて虫が良すぎなんじゃない?」と言われました。大衝撃でした。それからなるべく私は語りたいと思っています。

そしたら五月蝿い奴になってしまって。どこか中庸が保てない物かと自分が情けないと思う時もあります。
そう、人の解ってもらおうという欲求は大きなもの。

ここで語られているある文筆家。かれは自分の作品を読み込まれ、資料も漁りまくられないとほんとうに自分を理解してもらえないような仕掛けを自作に仕込んでいて。そこまで行ってもらえなければ誤解されるのも恐れないようで

す。そういう境地もまたあるのだなぁと思いました。

第5章「山本夏彦の「ホルモン、ホルモン」」
う~ん、性欲を恥ずかしいものとし、性欲に振り回される自分に失望する。それは何とかならんかなぁと思います。
性欲を持つ事、セックスしたいと思う事、好きな女の子とセックスしたいと思う事。それを自然に受け入れられたら。いつか性交が「犯す」とか「汚 す」とか、そういう物言いから自由になれたらいいと思います。今はだいぶそうなっているかもしれない。でも、「犯す」「汚す」という言葉に代表されるセッ クスにおける征服感の快感、あるいは逆に屈服の快感が無くなれば、そうなればそうなったで、セックスの魅力は減じるのでしょうね。あたしゃよーわからんけ ど。

第7章「イラク派遣「人間不在」の防衛論議ふたたび」
“カミ”をなくした日本人が、イスラムVSキリスト教一宗派の戦争であるイラク戦争に何か言えるか?という疑問点は頷けます。
そして、アメリカ合衆国のケツを舐めて豊かになったこの国の人間が、それに無自覚で、簡単にアメリカを非難する事はいかがなものかという筆者の主張は頷けます。

そして、筆者が、“カミ”を取り戻し、相対主義を乗り越えたいと願うのも理解します。ここで言う“カミ”とは、特定の宗教的な神じゃなくて、ある超越者としての“カミ”であるようですが。
『ここでスタイナーが口にしている「時間と個人の死との間に関係を見るひとつの見方」という言葉に、まさに私が考えている超越的なものが、すなわち「カミ」がいる。』(本書195ページ)

ところで。

『悪の枢軸を訪ねて』(雨宮処凛:著 幻冬舎:刊)によりますと、“戦前”のイラクはむしろイスラム教からの自由を目指していたようです。もちろ んサダム・フセインがリベラリストだったって訳じゃありません。逆にフセインが自国を独裁するために、イスラム勢力が目の上のたんこぶだったからですが。 だから、イスラム原理主義者のテロ行為に手を貸す訳はないのですが。
それが今では変質して、イラク戦争はイスラムVS米帝の泥沼の戦場となってしまって。ほんとアメリカ合衆国って国はバカです。

第8章「「軽い(ライトな)帝国」が行使する「まだましな悪」」
“軽い帝国”とは、今のアメリカ合衆国なんかの事。
まぁつまりある独裁的な国をいったん“軽い”帝国が制圧して、その国が“民主化”するまで面倒を見ようということのようです。かつての“帝国” が、相手の国を侵略し、その主権を奪った上で植民地化し、その富を搾取しようとしたのに比べて。今のアメリカ合衆国とかの方法論ですな。

日本じゃ戦後のアメリカ占領で民主化された訳で。“軽い帝国”はそこそこ成功したんだろうけど。ベトナム戦争じゃ腐りきった南ベトナム政権を反共 だからというだけの理由で支援して、大失敗したわけだけど。もし“軽い帝国”主義で合衆国が南ベトナムを占領下に置いて、その元で民主化を育てていってた ら、ひょっとしたらベトナム戦争は南側の勝利に終わっていたかもしれないけど。

しかし、“民主主義”が根付ける国ってほんとはそう無いんじゃないかとも思います。あたしは、イラクから米軍が手を引いたら、元の木阿弥になるんじゃないかと思っています。
日本だって、この政治家や官僚の腐敗具合を見れば、日本人は民主主義の器であるかどうか判りません。あたしだって権力を振るえる側に立てば、私腹を肥やさずに済ませられる自信はないし。

名君が治めるなら君主制の方がいいかと思います。しかし、名君なんて滅多に出ないし。代々名君なんて出る訳がないと思います。

私が民主主義を支持するのは、民主主義のほうが人々を幸せにできるという認識からではありません。
「国民自身がそのあり方を決め、その結果責任を、“良くも悪くも”国民自身が負う」というシステムの方が合理的だからと思っているからです。

う~ん、まだやっぱりいろいろ読み違えしている部分もあるし、よく解らないところもたくさんあったし。
でも、楽しく読めた本です。
自分の色々な考えや、“1979年問題”について色々ヒントを貰えたと思います。

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