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2006/05/22

ヤング・パースペクティヴ

東京ではゴールデンウィーク期間中に実験映画の祭典、イメージフォーラムフェスティバルがあって。イメージフォーラムフェスティバルには公募部門があります。一般からの公募を募り、選ばれた作品がフェスティバルでかかり、さらに優秀な作品には賞が与えられます。
で、惜しくもフェスティバルには上映されなかったのだけど、見所のある作品は、イメージフォーラムシネマティークの「ヤング・パースペクティヴ」という企画で上映されます。

いちばん熱心に実験映画を見ていたころは、フェスティバル全プログラム制覇&ヤング・パースペクティヴ全プログラム制覇、とやっていました。まぁ、実験映画マニアというよりも、ある種のコレクター根性のせいだったと思います。でも、ほんと見逃すともう一生見られない作品があるかも、そして、その作品で、私の人生が変わるかもしれないほどの影響を受けるかもしれないかも、と思うと、やっぱり1作品でも多く見たいものです。

今年のプログラムはhttp://www.imageforum.co.jp/cinematheque/884/index.htmlです。
今年は始まっているのに気がつくのが遅かったです。で、土曜日あわててE、F、プログラムと見てきました。
Eプログラムは「ゆびさきの夢、みえないウツツ」と題して、Fプログラムは「不在からはじまる」としての作品群です。

Eプログラムは実験映画のある意味極地の作品群。なんて言えばいいのかなぁ「映像のコンポジション」です。普通の劇映画を具象映画と呼ぶなら、こちらは抽象映画と呼ぶべきもの。
こういう作品についてどう語ればいいのか語り口がちょっと良く解りません。例えば劇映画なら「ストーリーがハラハラドキドキ」「ヒロイン萌え萌え」「銃撃シーンがド迫力」とか、語り口が色々ありそうなのですが。

こういった作品は、映像の丹念な積み重ね、その奥にある作者の「呼吸」とでも言うべきものが大切かと思います。それから受けた印象をどう語るか?はちょっと難しいです。

でも、具象絵画も抽象絵画も色と線の組み合わせであるところにおいて同じ、であると同様に、具象映画も抽象映画も映像の積み重ねであるところは変りありません。となれば、具象映画も抽象映画的な、その「呼吸」こそが最も根源的に観客に届くものではないかと思います。ただ、それは観客にとって無意識レベルの事で、映像の勘所のわからない、(私のような)一般劇な観客にとっては意識できない事なのでしょう。でも、それは無意識レベルでは確実に観客に届いていて。たぶん、同じようなストーリーの映画でも、面白いものと面白くないものがあったりするのは、そういう理由もあるのではないかと思います。

まぁ、例えば会話においても言語で伝わる情報より、非言語的かつ無意識レベルで伝わる情報の方がずっと多いと言いますし。でも、それによって、私たちは相手に好意を持ったり悪意を持ったりするわけで。

「みえないものへ」(居島知美:作)。作者の精神の不安定さを映しているようなゆらゆらと揺れるカメラの目線。作者さんご自身のかな、女性の全裸のシルエットを写したシーンがあるのですが、シルエットじゃない、実写みたいな不思議な存在感のある映像でした。
「IN BETWEEN」(重松佑:作)。モノクローム、カメラはフィクスト。モノクロームの方が色彩感がある場合がありますね。
「sight, lights, and touches」(能登芽依子)。シーンの間にテロップで詩のような文章が入るスタイル。時々見かけるスタイルです。こういう作品、私が映像作品を撮るような事があれば、ちょっと撮りたいと思っています。

Fプログラム「不在からはじまる」は、文字通り「不在から始まる」作品群。ストーリー性のある作品群です。

「ensemble」(吉野雄大:作)。劇映画仕立て。同棲している彼女が隣で寝ている間に死んでしまって。しかし、彼氏はそれを悲しめない。一種の“感情のフン詰まり”状態なのでしょうか。そういう作品。あたしも“感情のフン詰まり”状態は良くありますから、よく解ります。もう何年も詰まったままの感情をいくつか抱え込んでいます。
死んだ彼女。いびきがひどいようですから、睡眠時無呼吸症候群だったのでしょうか。あたしもそうみたいだからちょっと怖いです。医者は「痩せれば治る」と言いますが。

「ガールフレンド」(園部真実子:作)。ストーリー仕立てではありますが、より内面的な作品。「ストーリー」には寺山修司的に「過去」「経験」とかいう漢字をあてます。

作者は女性、ある女性と出会って、自分の部屋で色々話をしていくうちに、彼女の裸を撮る。彼女の体の裸は撮ったけど、心の裸には触れていない。心を裸にして触れ合いたい、という作者の欲望。語り口は作者が、作者の彼氏に語りかけるというスタイル。彼女との交流を深めていくうちに、作者は彼氏との別れを決意して。
ほんと、2週間というあいだの出来事。私も2週間という短い間に人生が変わってしまうような経験をしたいものです。
このストーリー、うまくアレンジすれば、ちょっとした劇映画にも仕立てあがるんじゃないかしら。

ただ、私は。
結局、お互いがお互いを完全に理解しあえるなんて無理じゃないかと思います。“理解できるところ”“理解できないところ”ひっくるめて、相手の“存在”を受け入れられるのが“愛”じゃないかと思います。“理解できない”ところまでを“許せる”、つまり“受け入れる”のも愛じゃないかと思います。(“許せる”という物言いは、相手が悪い事をしているような意味にも取れて、私の言いたい意味にはぴったりしないんですが)
ここらへんはどうも作者が若い女性である本作と、しっかり中年の域に達している私との物の見方の違いかと思います。

「私が選んだ父」(国井智美:作)。セルフ・ドキュメンタリーです。去年のイメージフォーラムの卒展で拝見した記憶があります。そのときと同じものか再編集されたものかはちょっと解らないのだけど。その時の感想は私の昔の日記(http://homepage1.nifty.com/buff/sunday/page1.html)の2005年3月13日の項に記述がありました。

母親と離婚して、今は離れて暮らしている父親。その父親がどうも蒸発して1年以上になるらしい。これをきっかけに、作者は父親の肉親や元・同僚にインタビューをして回る、という作品です。

同じような女性の作品に「男のサービスエリア」があります。「男のサービスエリア」は、同じく離婚して離れて暮らす父親が、田舎のサービスエリアで排ガス自殺を遂げた、それをきっかけに作者が父親の周りの人々に話を聞いて回り、そして、父親が自殺を遂げたというサービスエリア(よくある田舎町のドライブインレストランの駐車場なんですが)に、父親が死んでから見つかった異母兄と共に向かう、というスタイルの作品です。

「男のサービスエリア」は、フェイクも少々混じった、虚々実々のセルフ・ドキュメンタリーでした。例えば、作者さんに伺ったのですが、父の死後見つかったという異母兄は役者さんをお願いしたフェイクだったそうですし。
ドキュメンタリーに嘘を混ぜる、というのはルール違反かもしれません。でも、“事実”よりも“真実”を語りたいならフィクションも混ぜないといけないという部分は肯定できます。まぁ、マスコミの“報道”でそれをやられると困りますが。しかし、“過去”とは結局“ストーリー”としてしか存在できないとも思います。

閑話休題。

「私が選んだ父」も同じようなスタイルの作品です。父を巡る人々へのインタビュー、そして、父が自殺未遂した樹海のイメージ、そして、父が憧れていた、父が蒸発して向かった先かもしれないポルトガルの風景。

たぶん、これは作者さんの、作者さんなりの、父親に対する“弔い”の儀式ではないかと思います。全編に漂うなんとなくの空気、「男のサービスエリア」にも通じるその雰囲気、そう感じられます。そういった部分を具体的に理解し、提示できないところに、私の“映画読み”の力の足りなさを感じますが。

“弔い”、別れの儀式。ある意味“切り離し”の儀式です。作者は“父親”をフィルム(いや、ヴィデオ作品なので正確にはテープですが)に焼き付ける事によって、ひとつの“別れ”、あるいは“決着”の儀式を執り行ったのかなぁと思います。

自分の中に抱え込んでいるものと“決着”をつけるために、カメラを取ったのであろう人たちの作品、イメージフォーラムの卒展でよく拝見します。

今回「ヤング・パースペクティヴ」はA~Fまで6プログラムあります。全プログラム制覇!という元気はありませんが、なるべく見たいと思っています。…と書く時に限ってあまり見ないものですが。

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