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2006/02/25

禁煙ファシズムと戦う

禁煙ファシズムと戦う(小谷野 敦:編著 斉藤貴男:著 栗原裕一郎:著、KKベストセラーズ・ベスト新書)
読了。

私は喫煙者ですが。
最近の禁煙運動の猖獗っぷりに少々異様なものを感じています。喫煙者だから声高には叫べないけど。某オークションで煙草アレルギーの方の物言いというのに触れて、「煙草嫌いってここまで徹底的に嫌うのか」と鼻白んだ事もありました。で、本書を手に取ったわけです。

第Ⅰ部「禁煙ファシズム・闘争宣言」では、喫煙者の立場から、小谷野敦さんが現在の禁煙ファシズムに異を唱えています。“禁煙ファシズム”とは何かというのは、ここに良い要約があります。

小谷野敦さんは「もてない男」や「恋愛の超克」とかで、現代にはびこる“恋愛教”をばっさりと切ってくれていて、ファンです。その“恋愛教”。一見“正しい事”のように見えて、知らず知らずのうちに人の心に刷り込まれていて、しかし、“恋愛弱者”のようにそれから疎外される人を生み出してしまうシステム。そういうのに小谷野敦さんは本能的に敵意を示す人であるようで。そのデンで“禁煙ファシズム”を斬ってくれてます。そういう態度、好意と尊敬を持ちます。

しかし、訴訟上等で路上喫煙する小谷野敦さん。吸ってる煙草はガラム・スーリャマイルドだそうで。あの、むちゃくちゃ臭いのきついガラムであります。本気であります。

第Ⅱ部「「禁煙ファシズム」の狂気」では、“非”喫煙者の斉藤貴男さんが「健康増進法」など、国家が国民に健康を強いるシステムに疑問を投げかけています。ナチスが国民に健康を強いた故事など挙げて。
そして、第Ⅲ部「嫌煙と反-嫌煙のサンバ」では栗原裕一郎さんが状況をちょっと俯瞰してお書きになっています。
それから第Ⅳ部では、「反・禁煙放談」として、小谷野敦さんと斉藤貴男さんの対談。

巻末には付録として、禁煙運動の最大のバックボーン、「受動喫煙による健康被害」という説に疑義を投げかける論文、カリフォルニア大学公衆衛生学部、ロス・アンジェルス、研究員のジェイムズ・エンストロームによる「カリフォルニア在住者を対象とした計画研究における環境中たばこ煙とたばこに関連した死亡率、1960~98年」が収められています。この翻訳は初めてとか。

本書について思うことは。
嫌煙サイドの本は読んでないので、偏った見方であると思いますが。

受動喫煙が害として確定されて、その上でそれを規制されるのは仕方ないと思います。また、本書でも書かれているごとく、ポイ捨てとか、マナーの悪い喫煙者はそれを改めるべきだと思います。
しかし、受動喫煙の害自体、議論が分かれているようです。そして、もし、疑わしきは規制せよというなら、電波の害に議論が別れている携帯電話や、その他もろもろの健康被害に議論が別れている品物をなぜ煙草並みに規制しないのか疑問を持ちます。確かに。
そしてまた、受動喫煙が害としても、会社とかで隣にチェーンスモーカーがいて、いぶされているような人はまだしも、煙草の煙や臭いにちょっと触れたりするぐらいで健康被害が発生するとは思えません。

また、煙草をそれだけ規制するなら、事故で人を傷つけたり殺したりし、排気ガスで空気を汚す自動車がなぜもっと厳しく規制されないのかという主張も頷けます。「自動車は無くてはならない必需品であり、煙草は無くても済む嗜好品である。」という物言いは、本書にもありますが、通らないと思います。本当に自動車が必要な局面はこの世に僅かです。嗜好品であれば規制しても良いとするのなら、公共交通機関がえらく不便なところや、生活必需品の輸送だけ自動車の使用が許されるようにすればいいと思います。それこそ煙草を運ぶのにも自動車は使われている訳ですし。
実際問題、デンマークでは自家用車には180%の税金がかかるそうです。そして、煙草の規制は緩やかだそうです。さて、どっちの方が健康的なのでしょうか?

もちろん、嫌煙が“文化”と化しつつある状況ではあると思います。だから、もう、無意識レベルの刷り込みで、煙草の臭いをちょっと嗅いだだけでとても不快に感じたり、ひょっとしたら条件反射で咳き込む人とか出てくると思います。

そうですね、煙草は文化的にタブーとされつつあるのかも。まぁ、いろいろタブーをなくしてきた昨今。タブー不足なのかもしれない。タブーを作る事、守る事、守らない人をなじる事、そしてタブーを破る事、すべては快感ではあると思います。
例えば、かつてオナニーはタブーで、で、オナニーの医学的な害、精神的な害というのがいろいろと喧伝されて。しかし、結局は…。煙草もそういうものかもしれない。

まぁ、まだ嫌煙は文化としてはきちんと根付いてないと思います。だから、今の嫌煙ブームに私は違和感を覚えているのかと。
で、その現状で煙草問題は最終的には快・不快の問題かと思います。そう思って我が身を振り返ると。
そうですね、私は電車とかで携帯電話でくっちゃべってる奴が不快だし、いちゃついているアベックが不快だし、騒いでる奴が不快だし、ヘッドフォンから漏れる音が不快だし、きつい、私の好みではない香水の臭いが不快です。じゃあ、例えば、私は、香水の臭いで健康被害が発生するという説が、たとえトンデモでも出たら、それを盾に香水を規制しろと言い出しかねないと思います。

じゃあ、その快・不快の出所ですが。

人はひょっとしたらいくらかの敵意を抱え込んでしまっているのかもしれない。不快な物に触れて敵意が生まれるんじゃなくてね。そして、その、他から来た敵意を転嫁して、“正当に”敵意をぶつける相手を常に探していると。それは人の心の闇。“差別”もそういう部分があるのかもしれない。

前にも書いたけど、先日、満員電車で雑誌を読もうとして、肘をゴツゴツ人に当ててつっぱらかせ、雑誌が人の頭に当たっても平然としている奴を見ました。そういう奴はたぶん、周りに敵意を抱いていて、雑誌を読むことを口実に、ひそかにその敵意を晴らしていたんだと思います。ひょっとしたらそれはたぶん無意識レベルのことで、意識レベルではただ単に「俺はこの雑誌が読みたいんだ」という考えしかないかもしれませんが。そういう人間にはなりたくありません。

また、人と人を結びつけ、社会を構成させている、さまざまな共同幻想が崩壊している昨今、嫌煙というのは人と人を結びつける共同幻想として機能しているのではないかと思います。

もうひとつ考えられるのは、電車の中とか雑踏とか、たくさんの見知らぬ他人と接しなければいけない場所の場合、他人は“無味無臭”な、無視できる存在であってほしいという部分があると思います。だから煙草とか携帯電話とか香水とか、その“無味無臭”を超える、こちらに届く存在になられると不快になるんじゃないかと。
それは仕方ないことで。例えば私は、通勤途中とか街中で、一日に数百人、あるいは数千人の人とすれ違っていると思います。彼らがそれぞれに“個”であると認識し、処理しないといけないとすれば、簡単に私の情報処理能力を超えてしまうでしょう。いや、私は、どうやらそういう傾向があるようで。渋谷とかに行って帰ってくるとどっと疲れて、時には2~3時間寝込んだりします。
まぁ、人類の歴史でもそういう赤の他人と何百人、何千人も接するようになったのは、ここ百年とか二百年の事じゃないかしら。だから、そういうのに対処するようになってないと。
しかし逆に“個”の側としては、埋没したくない、“個”を主張したいという衝動もある訳で、ややこしいね。

まぁ結局、本書にあるとおり、
この世に生きていて不快なものなど山ほどある。喫茶店のうるさい音楽とか、おばさんのきつい香水とか、電車内の声高なおしゃべりとか、泥酔者とか。そういうのと少しづつ折り合いをつけなければ人々は共存できないだろう(113P)
というのがスジなのでしょう。もちろん、我慢すべき・我慢すべきではないかの境界値はどこにあるの?どこに置くべきなの?といういちばん肝心の問題がありますが。

そこらへんをきちんと意識して、周りに敵意を抱かず、かといって無関心にならず、少々の周囲への気遣いをもって、やっていけたら良いなと思っています。しかし、心には光も闇もあるもの。その“闇”とどう付き合うかという事ですが、難しいのは。

さて、小谷野敦さんはこの「禁煙ファシズム」が大ブームとなったルーツを“ヒトゲノム解析”にあるとしています。人の寿命は遺伝子的要素で決定済みであるという事実から目をそらせるためのものであると。私はちょっと違う見方をしています。

えと、煙草っていうのはもともとネイティブ・アメリカンの風習とか。アメリカ合衆国の歴史において、ネイティブ・アメリカンへの迫害はまごうかたなき暗黒部分であります。で、アメリカ合衆国がその絶対的正義をうそぶくためには、その迫害の歴史を“無かった事”にしたいと。つまり、ネイティブ・アメリカンの存在そのものを忘れたいと。だから、アメリカ合衆国は先鋭的な嫌煙体制を敷いていると。アメリカ合衆国が、自国は絶対的に正義であると信じ込まないとあの、訳のわからないイラク戦争とかできませんもの。そう思っています。

また、もちろん、本書でも触れられているように。今日の“健康至上主義”というのがあると思います。
今日、宗教というものが崩壊していて。宗教では“貪欲”はタブーとされているのが多いです。そのタブーは、かつて餓死と隣りあわせだった頃の社会では有効ではあったと思います。食べ物とか、自分でたくさん取りすぎず、分け与えよとか。一種の“生活の知恵”かと。が、この“消費社会”。野放図な消費を人に求める社会では、宗教の持っていた“貪欲の戒め”は邪魔物でしかない訳で。で、宗教を崩壊して、貪欲を戒めるの戒律からも人は自由になって、この“消費社会”は大発展を遂げたのだけど。でも、それはまた、宗教の“死を受け入れる知恵”という部分も崩壊させることになって。となると人は“死”を受け入れがたくなって。とりあえず死をいかにして先延ばしにするかのテクニック、つまり、“健康”が重んじられるようになって。で、健康ブーム、健康至上主義が生まれたと私は睨んでいます。まぁ、どっちにしろ人はいつか死ぬものだけどね。

あと、禁煙スペースが増えている状況ですが。例えば航空会社とかの全席禁煙は健康問題を口実にしたコスト問題だと思っています。煙草を吸うお客さんがいれば、席の灰皿を掃除したり、空調の掃除とかもこまめにしないといけないし、内装もヤニで汚れるから掃除も禁煙よりこまめにしないといけないと思うし。いまどきの航空会社、一円でもコストを下げたいと思いますし。まぁ、おかげでお金のない私でも飛行機で帰省できたりしますが。

また、路上喫煙禁止条例とか。アレは“市民の健康”を錦の御旗に立てれば、与党野党とくに反対する事もなく、安直に決められて、お金も余りかからなくて、プロパガンダさえうまくやれば、とりあえず住民の受けが良いという、まぁ、これもコストパフォーマンスの良い、“人気取り”向きの条例だからじゃないかと思います。

そう考えると『健康増進法』なるものも政府の自己満足かもしれませんね。とりあえずなんか国民のためになる事をやってるつもりになれるという。こっちは余計なお節介と思いますがね。ふだん、奥さんを大事にしていない、付き合いだとか何とかにかかるからといってしょっちゅうお金を持ち出してはムダ遣いしているようなダメ亭主が、罪ほろぼしのつもりで買ってくる安物の花束、みたいな。花束買う金があったら家に入れろ、と。花を買ってやるくらいで優しい亭主のフリするな、と。しかし、コロっと「ウチの亭主は優しいよぉ。」と涙する奥さんもいるんだろうなぁと。

本書については書きたい事がたくさんありますが、うまく書けません。ここで紹介した事も誤読である部分があるかもしれません。だから、ゼヒ本書に当たってほしいと思います。

私は、人が雪崩をなしてひとつの方向に向かおうとする時、意識レベル・無意識レベルを問わず、ひとつのイメージを刷り込まれられそうになったとき、それに対してツッコミを入れる人がいてほしいと思っていますし、そういう物の見方をしたいと思います。
寺山修司は「さかさま~」シリーズとかで、そういう既存の“イメージ”を軽やかに逆転させて見せました。なんかサーカスの空中ブランコを見るような快感でした。
ナンシー関さんもそういう突っ込み名人でした。ナンシー関さんはテレビが刷り込もうとしているある“イメージ”に突っ込みを入れて面白がる人だったと思います。そうですね。それを面白がれる人間になりたいと思っています。

「禁煙ファシズムと戦う」おススメであります。
しかし、ほんとに小説読んでないぞ…。投票どうする!?

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コメント

 最近はバンバン路上で吸ってます。一応マナーはコントロールして。それは従来からの雰囲気のマナーに従うものです。この国は雰囲気が神なのだから、と決めております故・・・バンバン吸えずして詩人なんかじゃねーー!!

投稿: 敬々 | 2006/02/26 03:45

私は嫌煙家なのです。この本に書いてあるらしい「少しづつ折り合いをつけなければ人々は共存できないだろう(113P)」と言うのは大賛成。バンバン吸うのは自由で、その吸われて出てきた煙を嫌うのも自由。要は嫌いな煙が自分の所に来なければ、バンバン吸って頂いて大いに結構。税収アップに貢献しているんだし。

一度吸った煙が肺の中で溶けて出てこないタバコをJTが開発してくれれば良いのに。でもってウンコが真っ白なったりオシッコがヤニ色になったりしたら楽しいだろうな・・・。 チョット趣味悪いね。

投稿: よっちゃん | 2006/02/26 12:23

>敬々さん
雰囲気、ですね。
人がなんとなくひとつの雰囲気をなんとなく共有していた時代ではもう無くなりつつある、また、人が雰囲気を読もうとしなくなってる部分もあるとも思うのです。それがまた、ちょっとした周りへの気遣いもできなくなった事とも関連しているのではないかと。だから、路上喫煙防止条例とか生まれたのだろうと。
まぁ、私も人がいないような場所では路上でも吸ってます。

>よっちゃんさん
私は電車の中とかでよくむかつく奴だろうと思います。ヘッドフォンから漏れる音とか、ぎゃあぎゃあ騒ぐ酔っ払いとか、いちゃつくカップルとか。この文章に書いたようなことをつらつら思って、そして、むかつく自分を外から眺めています。もちろん完全に自分を客観視はできませんが。そうすると、むかついた気分が少し減じたような気がします。

嫌煙はある意味文化であるのでは?というのがこの文書の一つの意図です。つまり、煙草が不快だから嫌煙、じゃなくて、嫌煙が人々に刷り込まれて、煙草が不快になった人が多いのでは、という考え方です。

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そう言えば、「電気用品安全法」なるものが決まったそうですね。なんか中古の電気楽器とかオーディオ機器とかが売買できなくなるそうで。ミュージシャンとか音楽関係のサイトで大騒ぎになってるみたいです。私はあるインディーズミュージシャンさんのサイトで知ったのですが。

これも、「古い電気製品で火災とか感電事故とか起きていいのか?使う人間が被害を受けるなら自己責任だろうけど、もらい火で被害を受ける人のことは考えないのか?」などと言われると反論の余地がありません。

なんとなく煙草問題に似ているような気がします。
むつかしいものです。

投稿: BUFF | 2006/02/26 17:12

煙草が不快だから不快なんですよ。
それだけの理由じゃいけませんか?
それから、喫煙者本人の健康の事なんて誰も心配してません。調子に乗るなと言いたいですね。

投稿: AA | 2009/11/07 15:22

鼻につくのはタバコの是非以前人間性の問題です。
その「非国民め!」と言わんばかりのふてぶてしさが不快なんですよ。
大勢いつの時代にもいますよね。そういった人。

投稿: usikunn | 2010/08/16 22:24

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