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2005/04/28

性的唯幻論序説

性的唯幻論序説(岸田 秀:著 文春新書)
読了。

しろはたさんで紹介されたのがきっかけで岸田秀を読み始めました。で、しろはたの本田透さんが著した『電波男』を読んで、また岸田秀の『ものぐさ精神分析』を読み返したりしたのですが。『性的唯幻論序説』は新しく読んでみた岸田秀の本です。

岸田秀の思想の大前提として、「人間は本能の壊れた動物である」というのがあります。人は他の動物は種として持っている本能を持っていないと。個としてばらばらになっていると。そして、だから、人は本能が壊れたままでは生きていけないので、そのばらばらから共有できうる部分を集めて共同幻想をこしらえ、それで社会を形成している、と。それが岸田秀の「唯幻論」の根幹になります。
本作は岸田秀が自説「唯幻論」を以って、恋愛と性について考察した本になります。

まず、人は本能が壊れているから、本能に基づいて“繁殖のための”セックスはできない、と。
そう言えば、先日『青い珊瑚礁』という映画がテレビでありました。ぶっちゃけて言えば、無人島に漂着した、セックスを知らない幼い男女が成長して、セックスをして、子供を作るという映画ですが。ああいう風にセックスを知らない男女が自然にセックスをするようになる可能性はあるのかしら?岸田理論によればありえないということになるのか。それとも、後は古事記じゃないけれど、動物の交尾を見てセックスのやり方を知ったりできるのでしょうか。いや、幼い子供でもまったくセックスの知識はないとも言えないだろうけど。
んで、人は“共同幻想”として恋愛とかセックスを作り出し、繁殖する必要があったと。その時、男女どちらが問題となるかというと、男の方が問題であったと。と言うのも、男は性的に興奮して勃起しないとセックスはできないけど、女は性的な興奮がなくてもペニスを受け入れられる、と。だから、男性中心の恋愛観・セックス観が生まれた、と。ただ、岸田秀は決して性差別主義者ではありません。

んで、『電波男』で指摘された現代の恋愛資本主義。
私は恋愛資本主義は、あらゆるものを商品化し、消費の対象としていかねばならない資本主義・消費主義の行き着いた極北として、「恋愛の商品化」が発生したと理解していましたが。
岸田秀の指摘によれば、資本主義の発生時からそもそも恋愛は商品化されていた、と。目からウロコが飛びました。

つまり、資本主義時代、気軽にセックスを楽しめる男女関係は否定され、セックスは働き手、つまり「資本主義のしもべ」としての男の目の前に吊り下げられた人参となったと。気軽にセックスを楽しめる関係を封印するために、未婚女性には処女性が求められるようになったと。そして、婚姻外のセックスを求める男に対しては、高い金を払う売春婦があたるようになったと。ただ、結婚まで女性は処女を守ることを求められた社会であるから、売春婦は蔑まれる存在となったと。
また、女は経済的に男に頼らざるをえなくなり、そのためにも、むしゃらに働かざるを得なくなった、と。また、女は、自身の処女を結婚するための嫁入り道具として墨守せざるをえなくなったと。

もちろん、そのシステムは矛盾があって、歪が出ている、と。
例えば、ヴィクトリア朝時代。表向きは性的抑圧が強く、しかし、裏では売春やポルノグラフィーが蔓延していた時代。
ヴィクトリア朝。森薫さんの『シャーリー』とか、『エマ』とか、ヴィクトリア朝解説書の『エマ・ヴィクトリアンガイド』で色々読んでいますが。あの時代は、そういう性の抑圧がいちばん酷かった時代でもある訳か…。
その社会レベルでの強い性的抑圧によるヒステリー患者を分析する事によって、フロイト心理学は始まったと。だから、フロイトはリビドーを重視した、と。
また現代、そのシステムは崩壊しつつある、と。ひとつは資本主義自体の行き詰まり、もう一つは性の解放である、と。

また、もちろん、「唯幻論」によると、男女間の性器の結合としてのセックス、つまり生殖の手段としてのセックスは、本能によるものではない社会が作り上げた幻想であるから、『電波男』にあるように、ゲームキャラとの恋愛だってありえると言える訳です。

う~ん、まず、ちょっと考えたいのは、エロ漫画とかギャルゲにおける処女問題です。
どうもエロ漫画とかギャルゲには破瓜シーンが多いような気がします。なぜ、エロ漫画とかギャルゲを楽しむオタクはヒロインの処女性にこだわるのか?
クリシェで言われる「恋愛経験の浅いオタクは恋愛経験豊富な女性を怖れる、だから、恋愛経験の浅い(はずの)処女にこだわる。」という物言いだけでは説明しきれないような気がします。

オタクってのは、ひょっとしたら、資本主義の恋愛観を引きずっているのかもしれない。だから処女にこだわるのかもしれない。それで思い出したのがヴェネチア・ヴィエンナーレ日本館のOTAKUのパンフレットですが。パンフレットには、オタクは資本主義-つまり、テクノロジーの進歩が人類を幸せにする-という幻想に破れ、傷ついたところから始まったという指摘がありました。

そして、「負け犬女」達。「負け犬女」はこの末期資本主義をうまく立ち回った女たち、でも、最後にはしくじった女たちかと思います。
性的には崩壊しつつある資本主義社会の価値観、「処女性の尊重」は乗り越え、しかし、一方では旧来の資本主義社会の「男は女に貢ぐもの」という価値観をうまく利用して、ちゃっかり楽しく生きてきたけど。でも、気がつくと旧来の資本主義的価値観には居所がなくなって、でも、新しい価値観を自ら創ってそれに従って生きていくまでの力はない人たちかと。
んで、勝ち組は、その、さんざん楽しく遊んだ後、うまく資本主義社会の価値観に戻って結婚して、楽して生きるという事になるのかな。

そして、オタクたちはそういう女たちの現状にうんざりして、旧来の、三次元では崩壊した資本主義的恋愛観やセックス観を二次元世界に求めようとしてる人たちかもしれない。
結局、両者とも末期資本主義社会の落し子かも知れない。

さて、これからこの世の中、どうやって行くのか?
人に生殖をさせるための幻想はどのようになっていくのか?
恋愛と性はどうなっていくのか?
資本主義はどうなっていくのか?
興味深く思っています。

岸田秀の色々な分析を拝見したく思っています。
そして、時機を見て『電波男』も再読しなきゃね。

P.S.
本書P237に書かれているのだけど。
(現代の)フリーセックスというのは一種の自由競争なので、「欲望とは他者の欲望である」というルネ・ジラールの法則、くだいて言えば、もてる奴はますますもてるという法則も手伝って、とくに男に関して、もてる者ともてない者の差が非常に大きいようである。
だそうです…orz.

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